学校に行くということを考えて
ラピアッツァという、イタリアンのお店でのディナー。
息子はフルコースを頼み、わたしは前菜の盛り合わせにアイスコーヒーをオーダーした。
前回の記事からの続きで・・・土曜日のこと。
友達と一緒に高田馬場に出て遅いランチをとった後、少し渋谷loftに寄ってから、息子の住む街の駅で待ち合わせたのだ。
先月の終わりに帰省したときもちょっと話していたけれど、なんとなく、意気込みが重荷に変わって、気持ちや生活にも負の影響が出て、焦燥感や自己嫌悪感の中にいる、・・・そんな感じの息子だった。
高校までの、あらゆる意味で恵まれた学校生活を考えれば、・・・自分の力を出せる場のない毎日は、きっと張り合いもないのだろう。
「都会はいやだよ。」と、ぽろっともらした言葉が、胸に響いた。
これまでと同じように、落ち込む時期があってもまたやがて自分の力で持ち直していくのだろうし、どんなことも今後の糧になるのだろうから、親があれこれ心配することはないのだと自分に言い聞かせてはみても・・・、自宅通学ならせめて生活のリズムくらいは整うだろうにと、ついため息が出てしまうのだった。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・
実はこの日は、keiさんの学校の公開日だった。前日の早朝にブログの記事を見て、急遽連絡を入れて、行かせていただくことにしてしまった。
公開された道徳の資料は、
「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」
(出典・大江健三郎「自分の木」の下で)
障害をもった息子がなぜ学校に行かなくてはならないのかという筆者の問いに、息子である光さん自身が出した答え。
それは、友達とともに過ごす年月の中で、人の役に立つということ、「音楽」という、社会につながる言葉を見つけたことにあらわされていた。
家庭で芽生えた音楽への関心を、より確かなものにした学校での生活。
卒業の日に、もう明日から学校はない、と聞かされて、「不思議だなあ。」と言いながら微笑していたという場面が、とても印象的で、心にしみるようだった。
教室の後ろで、この資料を手にしたとき受けた感銘を、どう言葉にしたら良いのかわからなかったから、授業で6年生が思いを充分に発言できなかったのもわかる気がして、
でも、それでもこの資料に出会わせたいというkeiさんの学習材へのこだわりが、まぶしく感じられた。きっと、子供たちの心の中に残っていくことだろう。
筆者は、あらゆる学習は、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながっていく言葉であり、それを習うためにいつの世の中でも学校へ行くのだ、と結んでいる。
「なぜ学校に行かねばならないのか」・・・この問いの答えはまた、人それぞれに異なるものでもあるのだろう。
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家に帰ってから、夫と話し、二日ほどした夜に、夫が息子に電話をかけた。
日曜日にあった、ソフトボールの県大会のこと(夫の)などを話しながら
「おまえ、学校、ちゃんと行ってるのか?」
と、穏やかに夫は問い、「がんばれよ。」と柔らかく笑っていた。
少し離れた部屋で、そのやりとりを聞きながら、電話の向こうの息子の顔を思い浮かべた。そして父親としての夫の生き方や息子への愛を、静かに、感じていた。
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